東京地方裁判所 昭和47年(行ウ)12号 判決 1975年3月25日
原告
川崎化成工業株式会社
右代表者
阿部二郎
右訴訟代理人
鎌田英次
外一名
被告
中央労働委員会
右代表者
平田富太郎
右訴訟代理人
日沖憲郎
外三名
訴訟参加人
合成化学産業労働組合連合
川崎化成労働組合
右代表者
芝原耕造
右訴訟代理人
岸星一
外一名
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一 当事者の求める裁判
一、原告
「1被告が、中労委昭和四四年(不再)第五九号、同(不再)第六〇号不当労働行為救済命令審査申立事件について、昭和四六年一二月一五日にした命令中、原告の再審申立を棄却した部分を取り消す。2訴訟費用は被告の負担とする。」との判決。
二、被告
主文同旨の判決。
第二 請求の原因
一、原告会社(以下会社という)は、昭和四一年二月二八日、いずれも会社の従業員である訴外玉田和男、同山田忠、同礎部勝英、同高木周治、同伊藤征一、同室伏喜美夫、同山岸正幸(以下全員をあわせて玉田ら訴外人という)を解雇した。そこで、玉田ら訴外人の所属する訴訟参加人合成化学産業労働組合連合川崎化成労働組合(以下参加人または組合という)はこれを不当労働行為であると主張して東京都地方労働委員会(以下都労委という)に対して救済命令の申立をした。都労委は、昭和四四年一〇月二八日、玉田ら訴外人に対する解雇は不当労働行為であると認めて、「被申立人川崎化成工業株式会社は、申立人合成化学産業労働組合連合川崎化成労働組合の組合員、玉田和男、同山田忠、同礎部勝英、同高木周治、同伊藤征一、同室伏喜美夫、同山岸正幸を原職もしくは原職相当職に復帰させ、解雇の日から原職に復帰するまでの間、同人らが受けるはずであつた賃金およびその他の諸給与相当額を支払わなければならない。」旨の命令(以下初審命令という)をした。
二、会社は初審命令を不服として被告(以下中労委ということもある)に対し再審査の申立をした。被告は、昭和四六年一二月一五日、原告の再審査申立を棄却する旨の命令(以下本件命令という。中労委昭和四四年(不再)第五九号、第六〇号事件命令の主文の「本件各再審査申立を棄却する」の中に、原告の再審査申立を棄却した部分が含まれる。)をした。<後略>
理由
第一本件命令の存在と原告適格
請求の原因一および二の事実については争いがない。
第二本件命令の適否
A事実関係
一会社と組合について
会社は肩書地に本社を置き、川崎市に川崎工場を有し、石油化学製品および同関連製品の製造販売を業とする資本金七億一、九〇〇万円の株式会社で、昭和四四年一二月一日現在その従業員数は五一九人であつた。組合は会社の従業員をもつて昭和二九年一二月一日に結成された労働組合で、その組合員数は昭和四四年一二月一日現在で八〇人であつた。会社には組合の外に組合を脱退した従業員によつて昭和四一年三月一五日結成された川崎化成工業新労働組合(現在全国化学一般労働組合同盟川崎化成労働組合と改称されている。以下新組合という)があり、その組合員数は昭和四一年四月一九日現在で一八〇人、昭和四四年一二月一日現在で三一九人である。以上の事実は争いがない。
二昭和三七年以降の労使関係について
<証拠>および別紙命令書理由第1「当委員会の認定した事実」2「昭和三七年以降の労使関係」記載の事実のうち争いのない事実を総合すれば、昭和三七年以降の労使関係は次のとおりであつて、右認定事実に反する証拠はいずれも採用しない。
(一) 組合は、昭和三七年九月に行なわれた役員改選で、従来の会社の係長クラスを中心とする執行部から工場の若い労働者を中心とする執行部へと変つたが、同時に、地域、産業別の労働組合との連携を密にするようになり、同三八年二月、千鳥地区労働組合懇談会の結成の中心的組合となつた。そして、同三八年春の賃上闘争に際しては、同年四月五日に、組合結成以来はじめてストライキを行ない、その後同年七月一日合成化学産業労働組合(以下合化労連という)に加盟し、教宣活動の強化のため組合機関紙の充実、調査活働の重視および青婦部の活発化を図つてきた(組合がストライキを行なつたことと合化労連に加盟したことについては争いがない)。
(二) その頃から、次のとおり、会社との対立関係が深められていつた。
1 会社内での組合掲示物に対する手続は、昭和三八年頃までは、就業規則四一条により組合が当該掲示文書につき事前に会社宛届出を行ない、会社受付印の押捺を得て掲示板に掲示した。ところが、同年一〇月合化労連から送られてきた組合の「ポラリス潜水艦入港反対」のポスターにつき、会社は、政治活動に関する文書であるとして、右文書の掲示を就業規則四二条の政治活動の禁止に違反するとして不許可とし、会社の手違いにより受付印を押捺した右ポスターを回収した。組合は、これを、組合活動に対する不当な干渉であると主張して対立し、遂に組合は会社の重ねての警告にも拘らず昭和三九年一月以降の組合の掲示あるいは配布文書の一切を会社に届出ずに掲示または配布するようになり、会社は右掲示物を無許可であるという理由で自ら撤去するようになつた(会社が前記ポスターを回収したことについては争いがない)。
2 会社は昭和三三年頃より毎月一回社内報を発行していたが、昭和三七年一月より経費節減措置の一環として右を隔月発刊とした。しかし、会社は同三八年六月、会社の実情、方針その他につき機を失することなく全従業員に知らしめその理解と協力を高める必要から簡単な形式の広報ニュースを発行するのが適当であると考え、前記社内報に加え会社ニュースを発行することにした。以後、これに会社行事、人事、団体交渉および労働小連絡会付議事項等の記事を掲載してきた。会社ニュースには、時には反組合的宣伝や組合幹部の言動を批判するような記事が掲載されるような場合もあつた(会社ニュースを発行したことについては争いがない)。
3 会社は、従来業務に支障のないかぎり、必要な範囲で組合員に会社施設供与の便宜を計つてきた。その際は事前に使用日時、場所、目的、参加者等を記載した文書をもつて会社に届出る建前であつたが、特に使用許可をめぐつて労使間に紛糾を生じることはなかつた。ところが、昭和三九年頃から組合とその上部団体、外部団体との接触が多くなるにつれ、会社は組合活動のための会議室その他の会社施設の借用、外来者に対する取扱い等につき、従来より許可制の運用をきびしくするようになり、昭和四〇年三月には、組合への外来者も機密保持、安全衛生の立場からという理由で所定の面会所で面会することを要求するとともに、部外者の組合事務所以外の会社内立入りによる管理上の弊害を考慮したとの理由で会議室等の貸与も従業員以外の者との共同会合には貸与しないと通告するに至り、昭和四〇年一〇月一九日組合の執行委員長土屋保の解雇後は同人の立入には外来者と同じ手続をするよう要求し、組合事務所と便所へ至る通路以外に通行しないよう通告し、また委員長としての同人が出席する会議は社員以外の者の出席する会合にあたるとして施設貸与を拒否した。昭和四一年二月二八日本件解雇後はこれらの解雇者を含む会合も社員以外の者の出席する会合にあたるとして施設貸与を拒否した(昭和四〇年二月の組合に対する通告ならびに土屋および本件解雇者に対する通告と施設貸与拒否については争いがない)。
4 会社は、従前、組合費のチェックオフを行なう外、労働金庫関係の積立金や借入金の返済、組合あつせん物品の購入金の返済等の手続も一括して行なつてきたが、昭和三九年の賃上げ闘争において、組合が行なつたストライキの賃金プールのための控除をその頃組合が会社に申し入れたのに対し、会社は組合提示の算式による計算事務は会社の経理能力からいつて堪えがたいものとして右申し入れを拒否した。しかし、その後、従来会社が行なつていた組合費等の計算を組合が行ない、組合は控除明細書を作成して会社に提出し、会社はそれにより右チェックオフを実施することとした(会社のチェックオフの従前の扱いおよび会社が組合の前記申入れを拒否したことについては争いがない)。
5 昭和三九年七月一一日、会社は会社構内で無許可で文書配布を行なつた組合員殿畑建治、野沢豊光、および右行為を指令した山田忠の三名に対し、就業規則四一条違反の行為であるとして、いずれも譴責処分にした。これに対して、組合は、「労働組合と会社は対等である。しかるに会社が文書の配布を行なうに当り、組合に届出て許可を受けたことは一度もない。」等の見解を組合報に掲載した。
6 会社は、昭和三六年一〇月以来組合の執行委員長であつた土屋保を昭和四〇年一〇月一四日付で懲戒解雇した。その理由は、昭和三九年八月以降同年八月四日を除き翌四〇年一〇月一三日まで全く就労しなかつたこと、同三九年八月中において、八月四日、八月八日、を除き、タイムカードを打刻せず、更に同三九年九月三日以降翌四〇年一〇月一三日まで打刻しなかつたというものであつた。
7 昭和四一年二月二八日本件解雇が行われ、同年三月一五日新組合が結成された。会社は四月一八日付で新組合の結成を歓迎する旨の記載があるパンフレットを従業員に配布した。同年三月以降組合の脱退者があいつぎ、新組合が多数組合となるに至つた(本項については組合の脱退者に関する部分を除いて争いがない)。
三就業時間組合活動の実態(協定の推移と申請手続)について
<証拠>および別紙命令書理由第1「当委員会の認定した事実」3「就業時間内組合活動に関する協定の推移」4「就業時間内の組合活動についての申請手続」記載の事実中争いがない事実を総合すれば就業時間内組合活動の実態(協定の推移と申請手続)は次のとおりであつて、右認定事実に反する証拠はいずれも採用しない。
(一) 昭和三六年九月から同三九年三月まで
1 昭和三六年九月一日、会社、組合間における組合役員の就業時間内組合活動に関する協定(以下「協定」という)が成立し、それ以後同三九年三月末日まで四回にわたり協定更新が行われたことおよびその内容は被告主張(別紙命令書理由第1、3、(1)記載の表)のとおりである(本項については争いがない)。
2 右協定の第三回(昭和三七年一〇月一日より同三八年三月三一日まで)の更新には、予め五〇〇時間の組合活動の時間枠が協定され、さらに期間半ばに一〇〇時間が追加されたにもかかわらず、右期間中組合活動のため消費した時間は右六〇〇時間を四三時間超過する結果となつた。もつとも、右超過部分の取扱いについては、特に会社から承認しないとの強硬な通告があつた訳ではなく期間満了前の同三八年二月一三日の労働小連絡会で弾力的に行なうことが了解された(五〇〇時間の時間枠の協定と一〇〇時間の時間枠の追加については争いがない)。
3 次いで、第四回(昭和三八年四月一日より同年九月三〇日まで)協定では、右の実態を考慮し、協定時間枠を一〇〇〇時間とし、特段の事由により右枠を越えると予想される場合は、事前に組合と会社間で協議することとした。しかし、組合は、同年八月一三日には既にその枠を費消し、更に三〇〇時間の追認を申入れてきた。右期間中組合活動のため費消した時間は右一〇〇〇時間を三七九時間超過した。しかし、前記事実上超過した組合活動の時間についての申請は会社により少なくとも表面上は問題とされることなく受理された(一〇〇〇時間の時間枠の協定については争いがない)。
4 会社は、このような協定時間枠の使用実態に鑑み、昭和三八年八月頃から組合に対し、特定の専従者をおくことについてしばしば提案したが、組合は人件費の負担能力がないことを理由にこれを拒否した(会社の右提案と組合の拒否については争いがない)。
5 昭和三八年一一月一日、第五回(昭和三八年一〇月一日より同三九年三月三一日まで)協定が締結された。その際協定時間枠を一〇〇〇時間とし、右協定に付帯し、「委員長は午前を、書記長は午後を就労労する。執行委員長、書記長が止むを得ず就業時間内に活動をする場合は、申請手続を行なつた上で協定時間を使用することがきる。時間枠一〇〇〇時間は、今回の協定をもつて限度であるから、超えないよう遵守する。この協定は組合専従制実施を前提とする暫定協定である。」旨の了解がなされた。しかし、この場合も、期間中組合活動のため費消した時間は右一〇〇〇時間を三一六時間超過した(一〇〇〇時間の時間枠の協定については争いがない)。
6 昭和三九年三月二三日、前記第五回協定の期間満了に伴なう措置につき組合は、「専従制については積極的に取り組みたいが、半年間の実績をみて大会決定をみないといけないので、それまで暫定的に今のまゝとしたい」旨の基本的な考え方を申入れたのに対し、あくまで専従制移行の立場をとる会社としては、協定を更新する意思はない旨および第五回協定付帯了解に基づき早期に専従制の実現をはかるよう通告し、そのまゝ右協定は期間満了を迎え失効した(組合の前記申入れと協定が期間満了により失効したことについては争いがない)。
7 昭和三六年九月第一回協定が成立して同三九年三月末第五回協定が失効するまでの間の就業時間内組合活動の申請手続は、①原則として事前に承認を得ること、②所属長を通じ部・工場長の許可を得ること、③原則として委員長の許可を得て申請書(正)を部・工場長あて、申請書(写)を人事部長あて提出することなどの手続により行なわれていた。ただし、緊急の場合には、本人が直接所属長に口頭または電話で連絡することによつて承認を得ていた。組合は、この申請に対し不許可とされたこともなく、また、申請の仕方について注意を受けたこともなかつた。なお、所属長から業務上支障があるとされた場合には、組合業務にはつかず就労していた。申請事由については申請書に具体的に記載して提出するのが通例であり、たまたま「組合業務」と記載してあつた場合には、会社から申請者に対し、具体的理由の説明を求めていた(申請事由の記載の通例と申請事由に組合業務と記載された場合の措置については争いがない)。
(二) 昭和三九年四月から本件処分まで
1 昭和三九年四月一日から同年五月一三日までの間、執行委員の大部分は指名ストに入つていた。同年五月一四日、終業時間後に、当時組合副執行委員であつた室伏喜美夫から会社に対し電話で同日および翌一五日の欠勤申出がなされた。その際、会社は組合に対し、「過去における組合の協定無視の実績に照し、四月一日以降組合と同趣旨の協定を締結する意思はなく、同日以降の時間内組合活動は、組合からの事前申請により、個別に許可、不許可を決定する。」旨通告し、あわせて右室伏の申請は五月一四日の分は事後申請であり、同月一五日の分は文書による正規の届出なくしかも終業時間後で実質的に所属上長と許否決定について協議のできないものであるとして許可の扱いをしなかつた。
2 その後、会社は専従制の提案および交渉と並行して従来のようなルーズな許可申請の手続を改めていく態度をとつてきたが、組合の態度は協定失効前とあまり変らず、事前申請を強く呼びかける会社の態度に反発する如く申請書に「組合業務」とのみ記載されることが多くなり、しかもその半分以上が事後申請という実態であつた。会社は申請理由について組合から具体的な説明がない場合および事後申請についてはいずれも不許可扱いにしその都度組合に連絡していた。
3 昭和三九年七月一八日、会社は組合が申請した執行委員長土屋保の同年七月一七日から同月三一日までの組合業務のため欠勤は、長期にわたるとして不許可にした。
4 昭和三九年一〇月八日の労働小連絡会で、会社は、無断離席に対して具体的規制措置をとるとの意向を表明するため、許可制を貫く旨発表した。
5 なお、会社は、組合に対し昭和三九年六月一日から完全専従制に移行されたい旨伝え、労働小連絡会において検討が続けられてきたが、話合いはつかなかつた。つづいて、同年一〇一五日の労働小連絡会において、会社は、「専従者は委員長ら執行委員の中から三名までとし、任期は一年とする。就業規則は協定に特段の定めのある事項および業務を前提とする事項を除きすべて適用する。専従者以外の組合役員の就業時間内の組合活動は認めない。」等を内容とする案を提示した。なお、この会社案による協定が成立するまでは、就業時間内の組合活動は三役に限つて必要に応じて許可し、その他の役員については認めないと言明した。これに対し組合は専従者に関する協定の締結には積極的に協力するが、それまでの暫定措置として三役以外の執行委員についても就業時間内組合活動を認めるよう要請し、また、組合は、専従者の数について財政上一名にとどめたいという理由で会社案の再検討を求めるとともに専従者を正式におく場合は土屋保としたい旨告げた。
6 昭和三九年一〇月以後、会社は、三役以外の役員についての時間内組合活動の申請をすべて不許可とし、三役の申請についても執行委員長の土屋保に関するものはその大部分を不許可とするようになつた。また三役の申請についても、その申請書(写)が人事部に届くのが遅れると不許可とするようになつた。そして、一〇月以後は、従前の口頭による不許可の通知に加えて、申請書に不許可印を押捺して二部とも組合に返却するという手続をとつた。
7 その後、昭和四〇年二月にいたつて、執行委員長の組合専従、就業時間内組合活動の時間枠等について労使の意見はほぼ一致したが、この協定の成文化に際し、専従者に対する就業規則の適用をめぐつて双方の意見が対立し、交渉は同年九月に決裂した(本項については争いがない)。
四玉田ら訴外人の解雇について
<証拠>および別紙命令書理由第1「当委員会の認定した事実」6「会社の経営事情および人員整理」7「玉田和男ら7名を含む組合員17名の解雇」記載の事実のうち争いがないものを総合すれば玉田ら訴外人の解雇の経過は次のとおりであつて、右認定事実に反する証拠はいずれも採用しない。
(一) 会社の成り立ちと経営の破綻した事情について
1 会社は、昭和二三年五月中央化成工業株式会社として設立され、その後商号を川崎化成工業株式会社と改めたもので、昭和三〇年に千鳥工場を新設し、同三三年に塩浜工場を新設した。主としてナフタリンの精製、無水フタル酸ならびにテレフタル酸の製造販売をしており、資本的にはそれぞれ無関係の原料製品等の関係業者が資本参加していて、現在資本金七億一、九〇〇万円である。
2 会社は、昭和三六年上期までは比較的に業績もよく順調に発展したが、昭和三七年下期に一億四、一〇〇万円の欠損を出し、それ以後一時的にやや回復したことがあつたが一般に不振が続いた。昭和三八年九月、会社は、業績停滞の挽回策として約四〇億円を投じ、テレフタル酸とその誘導製品であるデメチルテレフタレート(略D・M・T)の近代化プラントの新設にかかつたが、その心臓部ともいうべき連続式反応装置の不調が原因して設備全体の試運転は難渋を極め、長期間にわたつて本格的稼動ができず、遂に同四〇年末これを廃棄せざるを得なくなつた。その間、莫大な追加投資、試運転費、金利がかさみ、その上前記新設備による新製品の生産を予定して締結していた契約の履行のため割高な輸入品を代納する必要に迫られて、多額の差損を生ずる等の事態が重なり、昭和三九年下期に二億四、七〇〇万円、同四〇年上期に四億二、二〇〇万円、同四〇年下期に五億一、八〇〇万円と引き続き多額な欠損を生じ、同四〇年下期における繰越欠損金は一二億七、九〇〇万円に達する状態となり、負債総額は七〇億円に達した。その上、会社はもともと、昭和三五年に岡山県水島地区に工場建設を計画した頃から余裕をみた人員を採用してきたが、その後、昭和三七年右計画を中止した後もそのまゝ川崎地区の拡張計画を考慮して毎年若干の新規卒業者を採用して余剰人員を保有してきたところ、前記新設備の運営が挫折して将来の発展計画を全面的に放棄せざるを得なくなつた結果、新設備の要員はもとより前記余剰人員は会社の経営を極度に圧迫することとなつた。かくて、会社は元金の返済はもとよりのこと利息の支払にすらこと欠く有様となつた。
(二) 再建整備方針の決定について
1 会社は昭和四〇年末に至るや、極度の資本金不足をきたし、大口債権者に対しては、期限の到来した手形の書き替えや長期分割払いの借入金に振り替えることなどを懇望する一方、主要株主の保証によつて数億円の緊急借入れを行なうなどの緊急措置を講じて、辛うじて手形の不渡りと倒産を免れるという状態となり、このまゝでは会社経営の持続は不可能という事態に陥つた。
2 そこで、会社は、昭和四〇年一二月二二日、取締役会で次のとおり再建整備方針の大綱を決定した。
①不採算部門の切り捨て(ルルギ、KB、DA、の廃止)
②組織、職制の簡素化と勤務制度の是正
③人員の適正化(社長以下、嘱託、臨時、長期日雇、下請作業員を加えた全員で八〇〇人を限度とし、できるだけ八〇〇人以下にするよう努力する。)
④諸経費の徹底的削減等々。
会社は、右方針に従つて、遅くとも昭和四一年二月末日までに実施に移すべく準備にとりかかり、昭和四〇年一二月二八日には再建整備後の新組織図を決め、昭和四一年一月四日には人員整理のため勤怠調査を開始し、同月一九日には希望退職募集基準の設定を完了し、同月二〇日には交替勤務制度の改正案の作成を終えた(取締役会の開催については争いがない)。
3 なお、社長以下全員で八〇〇人以下とするという前記人員適正化の大綱は主要株主や債権者に誓約した不動の方針であり、会社はその具体的計画として、総従業員一〇三六人より不採算部門の専従者三七人に相当する人員を関係会社に移籍し、さらに下請作業員一九六人より釜掻き出しなどの五七人を残したその余の一三九人を解約して、その職場に社員を配置転換し(下請作業員とは会社が下請業者と一年契約(終期三月末)で仕事別に一括して下請作業料を決めて契約しているもので、会社は実際には実働人員を把握していないが、あらかじめ社員換算した管理人数を設定してそれを基礎として契約していたのでその管理人数で計画した。下請作業員の解約は昭和四一年二月末日までに意思表示をすれば可能であつた。)、なおその外六〇人ないし一〇〇人の希望退職者と停年退職者を見込んで従業員の縮小をはかり達成することとし、できるだけ社員の解雇を避けることとした。
(三) 団体交渉の経過と背景について
1 会社は、昭和四一年二月一日、組合に対し経営説明会を開き、経営状態の大筋を説明した後、再建整備方針の大綱として、前記不採算部門の切り捨て、組織職制の簡素化と勤務制度の是正、人員の適正化、諸経費の徹底的削減の方針を示して組合の協力を求めた。その際、会社は、「再建に当つては現在の総従業員数一〇三六人を、経済計算上は六〇〇人でないと採算がとれないが、諸事情により八〇〇人程度に縮減する。そこで社員をできるだけ残すため、本年三月末が下請契約の満了日に当るので下請を解約し、その職場に社員を配置転換したい。さらに希望退職を募集することによつて人員適正化を図りたい。」と概要を説明し、詳細は団体交渉で説明したいと述べた。組合は、はつきりしない点があるので具体的態度は今表明はできないが、労使が最善を尽すこと、今後会社から説明を受けるなかで職場で検討しながら団体交渉の中で話し合いたい旨述べた(経営説明会で再建整備方針の大綱を示したことは争いがない)。
2 昭和四一年二月二日から同月二五日まで一〇回の団体交渉が行われた。
(1) 第一回団体交渉(二月二日)
会社は、交替勤務制の勤務時間と勤務制、希望退職の大略の考え方、募集期間は二月一二日から二月二三日までであること、その場合の退職金などを説明し、更に「下請作業員一九六人分のうち釜掃除などに五七人分位を残し、一三九人分位を解約し、希望退職を募集すれば残人員は八〇〇人位になる。下請の解約にともなつて、その職場に社員を配置転換するので、この配置転換には全員応じて貰いたい」と説明した。組合は、当日、「スト権を集約して一方的な合理化再建案に反対する。基本的には話し合いによる解決を重視し、個々の再建案の詳細を明らかにし、全組合員で職場討議を深める。合化労連等の仲間と連帯を深める。」との基本方針を確認した(会社は合理化後の人員を八〇〇人以下にすることを経営説明会および団体交渉の当初より繰り返し説明したと主張し、<証拠判断省略>)。
(2) 第二回団体交渉(二月三日)
組合は、勤務制度改正、配置転換、希望退職などの措置は組合と協議した後に行なうべきで一方的に実施しないよう要望し、また組合が職場で検討し具体的態度を決めるため、八〇〇人で運営する場合の新機構の人員配置の概要、そのための配置転換の具体的構想を示すよう要求した。これに対して会社は、勤務制度の変更や配置転換などについて組合と協議を尽くすことは当然であるが、交渉に当つては、再建整備が目前に迫つている会社の倒産を防止する唯一の方策であり、二月中に完了したい旨答えた。
(3) 第三回団体交渉(二月四日)
会社は、組合の質問に対し、ルルギー・KB・DAを停止するに至つた所以や窮迫した実情を説明した程度で進展はなかつた。
(4) 第四回団体交渉(二月八日)
組合は、当日午前中に、「一方的な合理化に高率なスト権で」と題する組合報を配布した。右内容には、下請の首切りに反対すると記載されていた。会社は、団体交渉の際「希望退職募集について」という文書を読み上げて説明した。その内容は、①一年以内に退職したいと考える人②一両年中に停年退職に該当する人③他の収入源のある人④配置転換の困難な人⑤出勤率(遅刻、早退を含む)の悪い人⑥身体病弱な人(業務上傷病者を除く)⑦私傷病で休職中の人は応募してほしいというもので、申込み期間は第一回団体交渉の際の説明どおり二月一二日から二月二三日までとし、退職金は自己都合による場合にくらべ総体として二倍ないし三倍の額を基準とするというものであつた。そうして、会社は、右各号の該当者に全部辞めて貰いたいという指名解雇ではないとの趣旨を明らかにした。その際、組合が第二回団体交渉で求めた点には触れなかつたが、二月一〇日の組合の総会前に組合の検討に備えて組織図にのつとつた八〇〇人の配置を示してほしい旨の組合の要求を承諾した。しかし、その後、結局、会社は右要求は人事事項であるから会社と組合とあまり深く協議すべき事項ではないとの立場から明示しなかつた(希望退職募集の文書の内容については争いがない)。
会社が、人員適正化の一方法として計画した関係会社への移籍はこの頃すべて解消されることとなつた。
(5) 第五回団体交渉(二月一二日)
組合は、二月一〇日の臨時総会、二月一一日の執行委員会において「ルルギー・DA・KBの停止による余剰人員は約五〇人に過ぎないから、会社の主張するように二〇〇人の減員となれば、現在の体制から今後の生産を維持することは困難である。会社は、具体的な人員計画を早急に明らかにすべきである。」との主張をとりまとめ、組合報に発表した(組合報の発表内容については争いがない)。
当日の団体交渉では、会社はさきに発表した希望退職基準のうち2号の「一両年中に定年退職に該当する人」を「昭和四三年三月三一日までに定年に達する人」とし、5号の「出勤率(遅刻早退を含む)の悪い人」を「昭和三九年一二月一六日から昭和四〇年一二月一五日までの期間において、事故欠勤および無届欠勤が一〇日以上におよんだ人、ただし昭和四〇年一〇月一日より昭和四〇年一二月一五日までの期間の遅刻、早退は、三回をもつて欠勤一日とする。なおこの項において勤務成績の悪い人もあわせて加味する。」と具体化して組合に示した。これに対し、組合は、「希望退職募集には応じていくが基準枠は撤回されたい。交替勤務制は四直三交替制を望む。一方的な配置転換には反対であるが当面停止部門の配置転換には応ずる。配置転換の基準を示されたい。」と主張した(希望退職募集基準の具体化の内容については争いがない)。
(6) 第六回団体交渉(二月一四日)
会社は組合に対し、「組合が主張する希望退職募集基準枠の撤回、四直三交替制の実施に関する諸要求には応じられない。配置転換の基準を具体的に明示することは困難であるが、常識上妥当な線で行なう。」と回答し、さらに、はじめて八〇〇人の部課別人員内訳を発表し、その内容が役員六人、社員および外註作業員七五八人、臨時日雇一九人、出向者一七人の予定であることを明らかにした(部課別人員内訳の発表とその内容については争いがない)。
(7) 第七回団体交渉(二月一六日)
会社は、第七回団体交渉に先だち、二月一五日に、これまでの六回にわたる団体交渉における組合の考え方、主張などについて検討を行なつた結果、組合の主張や態度は会社のおかれている実態に目を覆つて、殊更に下請作業員の解約、人員適正化の緊急措置に反対するものと解され、企業再建に対する協力が見られず「反対のための反対」を行なつていると解する以外になく、今後交渉を重ねても再建案の進展をみる可能性は薄いという結論に達し、この際、従来の主として下請作業員を解約する方針を断念して社員だけで人員の適正化を行なう方針に切り換えるに至つた。そうして、当日の団体交渉において、会社は、「既往の団体交渉の経過よりみて、組合が会社の再建整備計画、とくに人員適正化計画に反対であることを確認した。組合の意向は十分分つたので、下請作業員を解約することはとりやめる。ただし、下請作業員を含めて総員を八〇〇人以下にするという基本方針に変りはない。配置転換は原則として希望退職の募集が終了した後に行なうが、仕事の性質上早急に補充を必要とする職場については、その必要性に応じて適宜行なう。」という方針を明らかにした。これに対して、組合は、「希望退職を募集して八〇〇人以下にならなかつたときはどうするのか。」と質問したが、会社は「八〇〇人にならなかつたら八〇〇人にするように方策をたてる。基準該当者には辞めて貰うことになるだろう。」と述べ、残存人員が八〇〇人を越えた場合に社員の解雇を行なうことをほのめかした。そこで組合は、「組合は現在の仕事を八〇〇人で行なうとするなら安全上問題があるから、八〇〇人で行なう場合の人員計画を明らかにして仕事の内容を明確にし、そのなかで下請のことを考えていこうと云つてきた。下請を解約するなとは云つていない。」と述べたが、会社はとりあわなかつた(会社が組合に対して明らかにした方針変更の内容については争いがない)。
(8) 第八回団体交渉(二月一七日)
組合は、会社に対し、先に会社が示した部課別人員により交替班の有給休暇や、指定休の問題、日勤者との勤務の割り振りの問題などにつき質問をしたが、会社は、「配置転換に応じてほしいと云えば反対、下請を解約するといえばそれにも反対では仕方がない。残つた人で安全にやつていく。」という態度に終始した。
(9) 第九回団体交渉(二月一九日)
組合は、「希望退職は認めるが基準は撤回して貰いたい。基準に固執して首切りをするようになることは許せない。人員配置については、実際に作業している人に検討して貰うが、相当時間がかかると思う。配置転換は希望退職による人員減で止むを得ないものの穴うめについてのみ認める。」と主張したのに対し、会社は、「希望退職の基準を撤回する意思はない。穴うめ以外の配置転換は絶対認めないというのは、下請の解約に反対ということを確認していると認めなければならない。」と応酬するなどで交渉は進展しなかつた。
(10) 第一〇回団体交渉(二月二五日)
第一〇回団体交渉にさきだつて、二月二三日、会社は希望退職の募集を締め切つたが、この間二〇〇人の応募者があつた。その結果、役員六人、社員五八四人、臨時日雇二六人、出向者一六人、下請作業員一九〇人分、合計八二二人が残ることとなつた。会社は、二月二四日、その後の対策を協議した結果、再建整備後の予定人員の八〇〇人を超過する二二人に対しては、希望退職募集基準の前記2号と5号とを丁度二二人にあわせて一部変更し、あらためてそれを退職勧告基準として設定し、これに該当する者に対して退職を勧告することに決定した。かくして、二月二五日の団体交渉において、会社は、八二二人が残る結果となつた前記事情を説明し、予定人員の八〇〇人を超える二二人に対する退職勧告基準を条件として、「昭和四二年九月三〇日までに定年に達する人二人と昭和三九年一二月一六日から同四〇年一二月一五日までの期間欠勤日数が一三日以上の人二〇人(組合員)には強く退職を勧告する。二月二八日正午までに応募すれば前と同じ退職金を支払う。これに応じない者は解雇する。それ以外の人の退職希望は受けつけない。」と通告した。これで団体交渉は打切りとなつた(会社が組合に通告した内容と団体交渉の打切りについては争いがない)。
(四) 玉田ら訴外人を含む一七人の組合員の解雇について
会社は、昭和四一年二月二八日、同日正午まで前記退職勧告に応じなかつた玉田ら訴外人七人を含む一七人の組合員に対して、同日付でいずれも就業規則二〇条九号(「前各号のほか、やむを得ない業務上の都合によるとき」)の規定に基づき解雇する旨通告した(本項については争いがない)。
五玉田ら訴外人の職歴および組合歴
<証拠>および別紙命令書理由第1「当委員会の認定した事実」7「玉田ら7名を含む組合員17名の解雇」記載の表(表記載の事実は争いがない)によれば、玉田ら訴外人の職歴および組合歴は次のとおりであつて、右認定事実に反する証拠はない。
(一) 玉田和男
玉田和男は、昭和三五年四月入社、見習を終えて、同年七月研究部第一研究室に配属、同三六年一〇月同部第二研究室に転属、それ以来本件解雇まで同研究室に属していた。その間、同三八年一〇月には触媒の共同研究につき社長表彰を、同三九年一〇月には消火協力により工場長表彰を受けた。同人は本採用とともに同三五年七月組合に加入し、同三六年一〇月職場委員に選任され、翌三七年一〇月再選され、同三八年四月より職場委員会議長となつた。同三八年一〇月執行委員書記長に、翌三九年一〇月執行委員厚生部長に、同四〇年一〇月執行委員副委員長となり、本件解雇当時その地位にあつた。
(二) 山田忠
山田忠は昭和三三年四月入社、見習を終えて同年七月研究部第一課に配属、同三六年一〇月塩浜製造部第一課第一係に転属(日勤班長)、同三八年四月第三係に転属(日勤班長)、同年一〇月第四係に転属、同三九年六月技術部化工課に転属、同四〇年一月技工部技術室に勤務、同年一二月同部技工課勤務となり、本件解雇当時同課に勤務していた。同人は本採用と共に同三三年七月組合に加入、同三四年一〇月職場委員となり、同三六年一〇月より執行委員体育部長、同三七年一〇月より執行委員組織統制部長、同三八年一〇月より執行委員青年婦人部長、同三九年一〇月より執行委員副委員長、同四〇年一〇月より執行委員書記長となり、本件解雇当時その地位に在つた。
(三) 礎部勝英
礎部勝英は昭和三六年四月入社、千鳥製造部第二課第一係に配属され、同三八年四月第二係に転属、本件解雇に至るまで同係に勤務していた。同人は昭和三六年七月組合に加入し、同三七年一〇月職場委員に選ばれると共に文化部員となり、同三八年一〇月職場委員に再選、同三九年一〇月より執行委員教育宣伝部長、同四〇年一〇月より同前再選、本件解雇当時その地位にあつた。
(四) 高木周治
高木周治は昭和三三年五月臨時工として入社、塩浜製造部第一課第三係に配属され、同三三年八月同課第一係に転属、同年一一月本採用となつた。同三七年四月第二課に転属、同三八年四月班長代理、同三九年一〇月より同四〇年三月まで班長、本件解雇まで右塩浜製造部第二課に勤務していた。同人は昭和三四年七月一九日組合に加入し、同三七年一〇月より職場委員となり、同三九年一〇月より執行委員組織統制部長、同四〇年一〇月より執行委員組織部長となり、本件解雇当時その地位に在つた。
(五) 伊藤征一
伊藤征一は昭和三五年四月入社、千鳥製造部第二課に配属され同三八年一〇月大森製造部製造課第一係へ転属、同四〇年七月同課第二係に転属、本件解雇に至るまで同係で勤務していた。同人は昭和三六年一〇月組合に加入し、同三七年選挙管理委員、同三八年一〇月職場委員、同三九年春闘時には拡大中央闘争委員となり、同三九年一〇月執行委員調査部長に選出され、同四〇年一〇月再選、本件解雇当時もその地位に在つた。
(六) 室伏喜美夫
室伏喜美夫は昭和三二年二月臨時工として入社、研究部テレフタル酸試験係に配属され、同年四月本採用となつた。同年六月塩浜製造部第一課第一係に転属、同三六年四月より同三八年一〇月まで同係で交替班長をつとめ、本件解雇に至るまで同係に勤務していた。同人は昭和三二年八月組合に加入し、同三四年三月選挙管理委員、同年五月職場委員となり、同年九月再度選挙管理委員、同年一〇月より再び職場委員、同三五年六月より職場委員に再選、同年一〇月三度び選挙管理委員、同年一一月職場委員を経て、同三六年一〇月執行文化部長に選ばれ、翌三七年一〇月再選され副委員長となり、同三八年一〇月執行委員に三選され副委員長をつとめ、同三九年一〇月執行委員に四選され、同四〇年九月まで書記長の地位に在つた。
(七) 山岸正幸
山岸正幸は昭和三一年八月臨時工として入社、研究部マイレン酸試験係に配属され、同年一二月本採用、同三二年三月塩浜製造部第一課第二係に転属、同三五年四月より班長、同三八年九月同部第二課第二係班長となり、本件解雇に至るまでその職についていた。同人は昭和三二年四月組合に加入し、同三四年一〇月より職場委員、同三五年六月より同年一〇月まで再選により就任、同三九年二月より同年九月まで三選により就任、同三九年一〇月執行委員青年婦人部長に選ばれ、同四〇年九月までその地位に在つた。
B不当労働行為の成否
一企業の経営が困難に陥つたとき、これを打開するためどのような方策を講ずるかは、経営の自由の一環として原則として経営者に委ねられているものと解すべきであるから、会社が、前記のとおり、経営上の危機に直面し、再建整備計画を樹て、その内容の一つとして社員を八〇〇人以下とする人員整理の方針を定めて経営合理化を図ろうとしたことは、前記の会社の経営状態の下では一応止むを得ぬ措置であつたと思われる。
しかし、このような不幸な経営状態に陥つた最大の原因は、会社の新プラント建設計画の蹉跌と昭和三五年以来工場の新設ないし拡張に備えるため余剰労働力を蓄積温存してきたこととによるものであつて、いわば会社の経営上の失敗ともいうべきものであるから、会社が経営合理化による人員整理を進めるに当つては、組合に経営状態の内容を示して人員整理の必要性について納得させ、その実施方法についても組合の理解と協力を求めるべきことは、労使間の信義則上当然のことといわねばならない。
しかるに、人員整理の中心課題に関する労使間の交渉の経過をみるに、会社は合理化後の人員を八〇〇人以下とすることについては既に一二月二二日の取締役会で決定し、これは主要株主や債権者に誓約したものであつたから、八〇〇人を越える人員については万一の場合解雇の手段をとつてでも達成せねばならなかつた不動の方針であつたのにかかわらず、団体交渉の前半ではこのことを明らかにせず、八〇〇人位という曖昧な表現をしていたこと、また組合の最大関心事の一つであつた希望退職募集基準については、会社は昭和四一年一月一九日に社長決裁を経て決定していたにもかかわらず、組合には団体交渉の当初それを示さず同年二月八日の第四回団体交渉と二月一二日の第五回団体交渉ではじめてその具体的内容を発表したこと、また組合が当初から二月一〇日の組合総会で検討するため明らかにするよう要求していた合理化後の人員計画については、人事経営に関する事項であるとして大綱すら示さず、同年二月一四日の第六回団体交渉に至りはじめて部課別人員計画表を発表したこと、また、団体交渉の当初から人員整理の方法として下請作業員を解約してその職場に社員を配置転換することと希望退職を募集することによつて達成するという基本方針を示して、できるだけ解雇を避けるという姿勢を示しながら、同年二月一六日の第七回団体交渉に至り、突然、下請作業員の解約を取り止める旨通告し、これに対する組合の反論にとりあうことなく、同年二月二三日に希望退職募集締切りの結果、残留人員が予定の八〇〇人を二二人超過した結果、余剰人員が二二人と確定するや、ただちに右二二人の解雇に照応する解雇基準を設定して退職を勧告し、これに応じないときは解雇する旨通告していることなどの一連の経過を総合すれば、団体交渉における会社の組合に対する態度は、経営が極度に逼迫し緊急に合理化を進める必要に迫られ、一方、組合の会社に対する態度に不信を招く点があつた(第二、A、二、(二)と第二、A、三、(二)、2など)にせよ必ずしも誠意を尽くして組合の理解と協力を求めるという態度とは認められない。会社は、整備は緊急であつたが、会社は誠意を尽くして団体交渉をしたものであつて、当時の資金繰りの極度の逼迫と組合の団体交渉における態度からすれば、会社の交渉態度は特段責められるべきものではないと主張する。なるほど、会社の経営が極度に逼迫していたことは前に認定したとおりであるが、それを考慮にいれても会社の交渉態度を是認することはできないこと前記のとおりであり、組合が団体交渉に当り特に不誠意な態度を示したとか反対のための反対に終始したことを認めるに足りる証拠はない。
二(一) ところで、企業が経営困難に陥つたときとるべき方策が経営者の判断に委ねられていることは前記のとおりであるが、一方労働者の解雇は労働者に大きな打撃を与え実質的にはその生存権を揺がす結果となりかねないものであるから、企業は経営合理化のための人員整理を進めるにあたつては、合理化の目的に反しない限り、解雇を避けるだけの努力を払うべきであつて、そのためには、下請の解約、希望退職の募集、余猶のある職場から労働力の不足している職場への配置転換等解雇以外に人員整理の目的を達しうる方法があつて、しかもそれが容易である場合には、そのような手段を講ずべき信義則上の義務があるというべきである。
(二) 会社は、当初、希望退職を募集する外下請作業員を解約してその職場に社員を配置転換することにより人員整理を進める方針をとつてきたことは前に認定したとおりであり、この方法はできだけ従業員の解雇を避けながら経営合理化のための人員整理の目的を達するための妥当な方法として是認できる。しかし、会社は二月一五日この方針を変更して下請作業員の解約を取り止めることとし、二月一六日の第七回団体交渉で突然、その旨、組合に通告したことは前に認定したとおりである。
会社が、当初の方針を変更した理由として主張するところは、要するに、組合が下請作業員の解約に終始反対したということであり、その判断の礎となつたのは、①二月中に人員整理を完遂せねばならなかつたこと、②下請業者より契約更新の有無の通知を催促されたこと、③下請作業員の解約と社員の配置換いつき組合の了承を得る見込がなかつたこと、④社員は配置転換を極度に嫌つてこれに応ずる気配がなかつたこと、⑤希望退職の募集を推進する方が摩擦が少なく早く進むと期待されたことであると主張する。なるほど、前に認定したとおり、昭和四一年二月二日、組合はストライキによつて会社再建案に反対する方針を決議し、二月八日の組合報には下請の首切りに反対する旨の記載がある。しかし、一般に労働組合の合理化に当つては、希望退職の募集、解雇とつながるおそれがあるから、労使対等の立場で団体交渉に臨むため、まずスト権を樹立しておくことはありうることであり、しかも本件では団体交渉中もその後もストライキを行なつた事実はないのである。また、下請作業員の解約に対して一応反対することも、同じ労働者仲間の失業について配慮する立場から、あえて怪しむにはあたらない。そこで、これらの事実を捉えて、下請作業員の解約に終始反対したとみることは首肯できない。また下請作業員の解約と社員の配置転換につき組合の了承を得る見込がなかつた旨および社員は配置転換を極度に嫌つてこれに応ずる気配がなかつた旨主張するが、前記認定にかかる団体交渉の経過をみても明らかなとおり、下請作業の職場への配置転換については、二月一四日の第六回団体交渉で抽象的な基準が示された程度で、まだ十分な協議はされていないのであるから、この段階で右のように判断したことも首肯できない。また、希望退職の募集の推進といつても広く一般従業員から募集したものではなく、会社が示した条件該当者のうちから募集したものであるから、実質は勧奨退職に近いものであつて、果して何人応募するか、それだけで人員整理を達成できるかの確たる見込みがあつたわけではない(現に二月二三日の締切日には二二人の余剰人員が残ることとなつた。)。さらに、二月中に人員整理を完遂せねばならなかつたことおよび下請業者より契約更新の有無の通知を催促されたことは、かりにそのとおりであつたとしても、組合にとつて解雇の危険を増大することとなるかかる重大な方針変更の理由としては薄弱である。
以上の次第で会社が従業員の解雇を避けながら人員整理の目的を達成するのに最も妥当と思われる当初の下請作業員の解約の方針を突然変更したことには十分な合理的理由を見出すことができない。
(三) 昭和四一年二月二三日の締切日までに二〇〇人の希望退職の申出があり、その結果八二二人が残存することとなつて、会社は同月二五日の第一〇回団体交渉において、残存予定人員の八〇〇人を越える二二人について退職を勧告し、それに応じなかつた玉田ら訴外人を含む一七人につき同月二八日解雇に及んだことは前に認定したとおりである。
会社は、余剰人員が二二人と確定した前記二月二三日の時点においては右二二人を残存させることができなかつた旨るる主張する。かりにそのとおりであつたとしても、当時、組合は解雇反対を重ねて主張しており、一方、会社人員整理の基本方針の一つはもともと下請作業員を解約してその職場に社員を配置転換することであつたのであるから、途中でその方針を変更したとはいえ、この時点で今一度当初の前記基本方針の立場に立ち、余剰人員相当分につき下請作業員を解約して社員の解雇を避けるという態度をとれば、この時点では下請作業員の解約にまだ十分な日時を残しており、しかも解約は極く小部分(結果的には一七人分)ですむのであるから、社員の解雇をしなくても残存人員を八〇〇人以下にするという当初からの人員整理の目的は容易に達成できたと推認されるのである。しかるに、会社はこの点についてなんら考慮することなく、勿論組合と協議することもなく、前記のとおり本件解雇に及んでいるのである。これを要するに本件解雇は、解雇以外に人員整理の目的を容易に達する方策があつて、その必要がないのに、これありとしてあえて行われた疑があり、就業規則二〇条九号所定の「止むを得ない業務上の都合によるとき」に該当すると解することも困難であるといわざるを得ない。
会社は、本件解雇の理由について、組合が終始下請の解約と配置転換に反対であつたことによると主張するが、組合が社員解雇の犠牲を払つてまで僅か二二人(結果的には一七人)の下請作業員の解約に反対するとは前に認定の事実からは到底考えられないし、また会社がその時点で二二人の解約につき組合と協議をする姿勢を示したことは認められないのであるから、会社の主張は採用できない。また会社は、下請作業員の解約ないし一部契約更新中止は多数の作業員を抱える下請会社の立場を無視した立論であると主張するが、社員解雇を強行してまでも下請作業員の解約ないし一部契約の更新中止を避けねばならない事情を見出すことはできない。さらに会社は、組合が単に抽象的に解雇反対の声明文を読み上げたりするのみで基準の内容には一切触れて来ないのであるから、会社としては如何とも為し難いと主張するが、会社が本件解雇に際し解雇を避けるための実質的提案を行なつたことを認めるに足りる証拠はない。
三会社は、本件解雇に当り設定した解雇基準について、再建整備の方針に適合するよう劣質な労働力を排除するための人選の基準として合理性があるものはこれ以外にない旨主張する。しかし、一般に企業の経営合理化による人員整理のためいわゆる整理解雇の必要性が存在する場合に、被解雇者選定の公平と合理性を担保するため解雇基準が設定され、該当者に序列をつけて被解雇者が選定されるという過程をたどるのが通常であるが、本件においてはそもそもその前提となるべき解雇の必要性が客観的に認められないのであるから、解雇基準の内容の合理性を論ずるまでもなく、右基準に基づいてなされた解雇は合理性を欠くものと云わねばならない。
しかし、右解雇基準の内容は、本件解雇が真実企業合理化のための人員整理の目的のためだけで行われたものであるか否かを判断する上からは一つの資料となることができるのでこの意味で検討する。いわゆる整理解雇に当り、被解雇者の人選は経営の自由の一環として原則として経営者の自由な判断に委ねられていると解すべきであるから、解雇基準として劣質な労働力を排除することを目的にして人選の基準を設定したとする原告の主張は一応首肯できる。しかし、右基準の内容の「昭和四二年九月三〇日までに定年に達する人」と「昭和三九年一二月一六日から同四〇年一二月二五日までの期間欠勤日数が一三日以上の人」というのは、昭和四一年二月八日の第四回団体交渉で発表した希望退職募集墓準の七項目のうち2号と5号を一部変更して、あらためて退職勧告(解雇)基準として設定したものであつて、実質的には右希望退職基準七項目のうち2号と5号を二二人の余剰人員に適合するよう欠勤程度だけをあわせて変更したものに過ぎない。前記七項目のうち、他の項目に該当するものの有無も明らかにされていないし、他の項目特に4号、6号、7号の該当者に比較して右解雇基準該当者が特別劣質な労働力の保持者であると認めるべき証拠もないから、右解雇基準が劣質な労働者を排除する基準としてこれ以外にない程合理性を有するものと解することはできない。
四以上のとおり、玉田ら訴外人らに対する本件解雇には合理的な理由がないものと解すべきであつて、組合が昭和三七年以来活発な組合活動を展開し、会社と組合との対立が深めらられていつたこと(第二、A、二)、昭和三九年三月就業時間内組合活動に関する協定が失効以来、右活動をめぐり会社と組合との対立が激化したこと(第二、A、三)、企業合理化による人員整理をすすめるに当り会社が組合に対してとつた交渉態度は必ずしも誠意を尽くしてその理解と協力を求めるものとはいえないこと(第二、B、一)、右人員整理にあたり、会社が、できるだけ従業員の解雇を避けながら合理化の目的を達成するに適切と思われる当初の下請作業員解約の方針を変更したことには合理的理由を見出せないこと(第二、B、二、(二))、希望退職の申出を締切つた時点においても右当初の方針にもどることが可能であつたのにそれをしなかつたこと(第二、B、二、(三))、解雇基準が原告の主張する劣質な労働者を排除する基準としてそれ以外にないほど合理性を有するものとは認めがたいこと、(第二、B、三)および玉田ら訴外人は、いずれも組合の役員として活溌な組合活動を行なつていたものであること(第二、A、五)を総合考察すれば、会社は人員整理に籍口して玉田ら訴外人を企業外に排除し組合を弱体化することを企図して本件解雇を行なつたものと推認するに難くない。そうであれば、玉田ら訴外人に対する本件解雇は不当労働行為というべきであるから、これと同旨の被告の判断は正当であつて、右判断に原告主張のような違法な点はない。
第三むすび
よつて、原告の請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。
(大西勝也 光広龍夫 中田昭孝)